東京地方裁判所 平成8年(刑わ)2732号 判決 1997年7月15日
主文
被告人を懲役一年に処する。
未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入する。
この裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予し、その猶予の期間中被告人を保護観察に付する。
理由
(犯罪事実)
被告人は、昭和五四年ころから、A子と同棲していたが、外傷性てんかんの発作を起こすことから家にいることが多かった。平成七年にA子の母親が亡くなり、A子が言語機能に障害のある妹のB子を引きとった。しかし、被告人とB子とは、ともに障害があるせいもあって意思の疎通を欠き、争いが絶えなかったため、平成八年夏ころ、A子は被告人との同棲を解消してB子と暮らし、被告人は一人で暮らすようになった。
被告人は、平成八年一二月一六日午後六時三〇分ころ、以前A子から孫が遊びに来ると聞いたことがあったので使い古しの自分の布団を与えるということにし、東京都板橋区《番地略》甲野荘二〇二号室A子方に行ったところ、B子(当時四六歳)が一人で留守番をしていた。被告人は、布団を抱えたままA子方に上がり込み、その布団が自分の使っていたものであったことから、B子に「布団を干せ。」などと言ったが、B子は以前から被告人を恐れていた上、被告人が突然現れて右のような言動を取ったために驚き、被告人の言うことを聞かず、A子方のベランダに逃げた。
被告人は、B子の態度に立腹し、A子方の台所において、B子の背後から左手を首に巻き付けて同女を捕まえた上、同所にあった文化包丁を右手に持って、同女の左上腕部を一回突き刺し、よって、同女に約三週間の安静加療を要する左上腕刺創の傷害を負わせた。
(証拠の標目)《略》
(補足説明)
一 被告人は、B子を包丁で突き刺した時は意識がなく、刺すつもりはなかったと供述し、弁護人は、被告人は本件犯行時にはてんかんの発作により心神喪失ないし心神耗弱の状態にあったと主張しているので、以下傷害の故意及び責任能力の点につき補足して説明する。
二1 B子は、言語機能に障害があるものの、検察官に対しては、姪を介し、実況見分調査添付写真を利用するなどして、具体的に供述しているところ、その内容は、ベランダで被告人に四回手拳で殴られ、逃げたが台所で背後から被告人の左手を首に巻き付けられて捕まり、流しにあった文化包丁を右手で逆手に持った被告人に同女の左上腕部を二回突き刺され、更に逃げたが玄関で捕まり、しゃがんだところを三回くらい殴られたというものであって、全体に自然であって、左腕の負傷の状況とも合致し、また、警察官に対する供述内容とも特段の矛盾もなく、概ね信用できる。
2 これに対し、被告人は、公判廷では、ベランダでB子を平手で殴った後、さらに逃げる同女を台所で捕まえ、流しにあった包丁を左手に持ったことまでは覚えているが、発作みたいなのが起きて何がなんだかわからなくなり、気がつくとB子が玄関で地べたに座っていて、被告人が同女の頭を押さえていたと供述している。捜査段階では、台所で包丁は左手で逆手に持っており、B子を一回刺したが、玄関で捕まえるようなことはなかったと供述していたので、包丁で刺した以降の記憶が変遷しているわけである。
被告人の供述は、1のB子の供述とは、ベランダで殴ったのが手拳でか平手でか、包丁を持ったのが左手か右手かといった点で異なるものの、ベランダでは素手で殴打し、台所で包丁を持ったとの点で一致しており、全く信用できないものではない。
三1 まず、被告人の捜査段階の供述によれば、被告人に傷害の故意及び責任能力が存することは明らかである。
2 次に、被告人の公判供述によっても、包丁で刺したこととベランダでの暴行との継続性を否定する事情はなく、それらは一連の行動であると認められ、台所でB子を捕まえて刃先の鋭利な包丁を手に取ったことまでは認識していたというのであるから、遅くとも包丁を手にした時点までに傷害の故意を生じたと認められる。そうすると、仮にB子を刺した時点で発作が起きていたとしても、発作中の行為はその直前の意思に従ったものであって故意に欠けるところはない。
3 捜査報告書によれば、被告人は交通事故による外傷性のてんかんを患い、医師の投与する薬を服用していたところ、時々発作を起こし、発作を起こしている間は意識がなくなるものの、発作を起こす前及び意識が戻った後は通常の者と同様に意識があり、物事の善悪も分別できることが認められる。
そうすると、B子を刺した時点で発作が起きていたとしても、2で検討したとおり、発作中の行為がその直前の被告人の意思に従ったものである以上、被告人は自己の行為を認識して善悪の判断をしそれに従って行動する能力を有しつつ実行したものといえ、完全な責任能力が認められる。
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法二〇四条に該当するところ、所定刑中懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役一年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予し、なお同法二五条の二第一項前段を適用して被告人を右猶予の期間中保護観察に付し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項ただし書により被告人に負担させないこととする。
(量刑の事情)
本件の犯行態様は、逃げ回る被害者を一方的に鋭利な包丁で突き刺すという極めて危険かつ悪質なもので、その結果が安静加療約三週間を要する傷害にとどまったのはむしろ幸運といえるが、それでもなお重傷であるうえ、被害者の味わった恐怖が甚大で、被害者が被告人を恐れて刑務所への収容を強く求めるのはまことにもっともである。
被告人は、被害者が被告人の言うとおりに行動しなかったことに立腹して本件に及んだのであるが、その背景には被告人が長年にわたって営んできたA子との同棲生活を破壊した者としての被害者への怨嗟があることは明らかで、さらには、てんかんのせいで社会生活ができない無力感の捌け口として、自分よりも弱者である被害者が選ばれたともみられる。被害者はA子と同居しなければ日常生活が困難であり、同居中被告人と協調できなかったからといって落ち度があるとまではいえず、被告人との別居は適切な選択であったというべきであり、被告人がA子との別居に至ったことで被害者を恨むのは筋違いである。いずれにせよ、本件は、無思慮かつ自己中心的な被告人の性格に起因するというほかなく、遺憾ながら再犯の危険も高いといわざるを得ない。
したがって、被告人に実刑を科すのが相当とも考えられるが、受刑による性格の矯正は期待できないところ、被告人が本件前に生活保護を受給し居室を賃借して生活していた環境を受刑によって断ち切ってしまったときの社会復帰の困難性を考慮すると、被告人がA子との交際を断つ旨を述べていること、鑑定人や弁護人との面接などを通じて被告人が僅かながらも自らの性格の問題を意識しつつあること、てんかんの治療も続ける必要があることという事情もあるので、保護観察官はもとより社会福祉主事などの専門家の強力な指導援助のもとで社会生活を続けるのが相当と考えられるので、保護観察を付して刑の執行を猶予することとする。
(求刑 懲役一年)
(裁判官 滝萃聡之)